2005年07月04日

ヨーロッパ退屈日記

以前、野口悠紀雄が何かで勧めていて、書店を探したけど見つからなかった本だ。

そうしたら、この度、新潮文庫から再刊されたようなので買ってみた。

まず、読んでみて思うのは、この本は、元々は昭和40年に刊行されたものであるということについてである。

昭和40年て、あんた、今から40年も前じゃないですか・・・。

それなのに、この本については、そんなことは、あまり問題にならない。古典とはちょっと違うだろうと思う。

昭和40年には、既にこのような内容が書かれていて世に出ていたのだなあ。

あまり時代は変わっていないのだなあ、とも思った。

逆に言えば、昭和40年にこのような本が出ていながら、結局、あまり変わらなかったんだなあ、とも思う。

とはいえ、最初に書いた野口悠紀雄のように影響を受けた人もいるわけか。

影響と書いたが、少し大げさかもしれない。そんなに大それた本というわけでもないのだから。どちらかと言うと、気楽に読む本なんでしょう。

この本を読むと、作者は、ずいぶん面白い人のように思えるし、どんな活躍をしたのか、どんな作品を作ったのかと気にもなるのだが。伊丹十三の作品というと、マルサの女くらいしか印象に残っていない。

そういえば、この本に書かれている絵は、作者本人が描いたものだ。それを知って驚いた。

なかなかいい味わいのある絵である。

以前より、小説(この本は小説ではないが)の挿絵って、小説そのものの一部として機能しないものかなあと思っていた。

究極的なのは漫画かもしれないが、漫画は逆に文章がかなり制限されてしまう。少年ケニヤみたいなのがいいのだろうか?

挿絵って結局、挿絵画家が小説を読ん(あるいは連載ものだと場合によっては予想して)、自分の感じたことを絵にするって感じ。

それはそれでいいのかもしれないけど、でも、それは、内容と一対一ではない。文章を読む以上に、挿絵を見て気づくことはないと思う。挿絵はイメージを喚起する助けにはなるかもしれないが、それが、作者の意図しているものとは必ずしも同じではないかもしれない。方向性は一緒かもしれないけれども。もっと、密接に、作品の内容とくっついたものが見てみたいと思っていた。

挿絵を描く人の立場は、我々読者とほとんど変わらないということだ。挿絵は挿絵画家の解釈が入っているか、あるいは、解釈が入らないように、最大公約数的又は一例的なものになっているといったところではないだろうか。

挿絵から、その本の作者の意図を読みとるなんてことは普通できない。

つまり、挿絵って、普通は参考にする程度くらいだけど、この本に描かれている絵は、文章に書かれていることそのものと考えていいはずなのである。

まあ、旅行記などで、文章と挿絵(あるいは漫画)が一緒になって一緒の作者が書(描)いているものもあるけどね。

話は、最初に書いたことと矛盾するようだが、旧き良き時代という感じもする。旧き良き時代の才能があって、才能を活かしている方の話を聴いているという感じ。ただ、それが、私の持っていた伊丹十三のイメージと一致しないだけなんだけど。といっても、もともとそんなに持っていなかったのだから当たり前か。


posted by にしにゃー at 03:28| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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